6/10 マキシム・ヴェンゲーロフ公演の感想
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先週はサントリーホールでアンネ=ゾフィー・ムター、今週はオーチャードホールでマキシム・ヴェンゲーロフと、二週続けて世界のトップヴァイオリニストの演奏を聴いた。
この夏はアマコンの参加を見送ったので、ちょっとソロピアノから外れてオケや弦楽器のライブを聴いてみようと思っている。ピアノを再開する前は、どちらかというとブルックナーのシンフォニーやワーグナーの楽劇のようなウルトラ管弦楽を聴くことの方が多かった。それから、最近は「弾く」よりも「聴く」方が楽しい。うさぎなので、大きな耳がありますからね(笑)。
さて、この夜のプログラムは下の通り。
ブラームス/大学祝典序曲 Op.80
ベートーヴェン/ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲 ハ長調 Op.56
(休憩)
ブラームス/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77
もともとのプログラムは二曲目がブラームスのヴァイオリンとチェロの二重協奏曲だったが、ヴェンゲーロフ本人の希望により、ベートーヴェンの三重協奏曲になった。
オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団、指揮は広上淳一。三重協奏曲はチェロに宮田大、ピアノが清水和音。個人的には、最初のプログラムよりも、清水氏が弾く三重協奏曲の方が興味があった。何よりベートーヴェンの三重協奏曲をナマで聴くのは初めてだし。
最初に結論をいうと、私は一曲目の「大学祝典序曲」が一番楽しめた。演奏の出来、不出来ではない。中学生時代に大学オーケストラの演奏会でこの序曲を聴いて以来だったこと、ハードな仕事を終えた平日夜、大らかな気持ちでオーケストラの響きにシフトできたことが理由だ。
私は中学・高校時代、母校の関西大学はもとより、京都大学、大阪市立大学等、関西の大学オーケストラの演奏会はほとんどすべて聴きに出かけた。ナマのオーケストラの響きを格安で聴けるのが魅力だった。当時、一公演500円くらいだったと思う。この金額なら、中学・高校生の小遣いでも気軽に聴きに行くことができた。演奏の上手い下手以前に、ナマの管弦楽の響きをホールで聴けるだけで貴重な体験だったのだ。
どの演奏会もたいてい一曲目は、ベートヴェンのエグモント序曲、コリオラン序曲、ロッシーニのセビリアの理髪師序曲等、10分程度の序曲だった。それらは入学したばかりの一年生のデビュー演奏となっていた。高校時代の影響だろうか、オーケストラの演奏会では最初、軽い序曲がないとどうも落ち着かないのだ。
時折、プロオケの定期演奏会を聴きに出かけたが、ブルックナーのシンフォニー1曲なんて演奏会は何だか損したような気分になった。
前置きが長くなった。ブラームスの大学祝典序曲を初めて聴いたのは、1981年、神戸でポートピア博覧会があった年。人工島ポートアイランドに新しくできたホールで関西の大学オーケストラが連日演奏をする催しがあり、そこで母校のオーケストラが最初に演奏したのが、この曲だった。30年以上も前の演奏会だが、しっかりと記憶に残っている。
この夜の東京フィルは、この楽しい序曲を、緊張感とリラックス、二つのバランスを絶妙の「間」で演奏していた。久しぶりに管弦楽の魅力を堪能した。「やっぱりクラシックはオーケストラだ!」なんて思った。
さて、二曲目の三重協奏曲は、ピアノをステージの真ん中に持ってきて、チェロの演奏台を置いてとセッティングが大変。長めのセッティング作業の後、ヴェンゲーロフ、宮田大、清水和音とステージに登場。宮田氏の伸びやかなチェロのソロで演奏開始。
だが、どうもこの曲、心に響いてこない。演奏者は一流なのだが、もともと私自身、この協奏曲自体が好きではないのだろう。ブラームスの二重協奏曲の緊密で「二声のインベンション的」というか、「バイオリン&チェロによる“一つの弦楽器”のための協奏曲」に比べると、どうも冗長な気がしてならない。
要は、どこを聴けばいいのかわからないのだ。ピアノトリオのための協奏曲と考えると、ピアノが淡白で役割が今ひとつわからない。チェロのためのバイオリンとピアノの伴奏付き協奏曲(なんじゃらほい)のようにも聴こえるし‥‥。聴き方の重心が分からないのだ。ただ一つ面白かったのは、ソロリサイタルでは見られないリラックスした表情で、清水和音氏がピアノを楽しんで弾いておられたこと。本当に楽しかったんだろうな。
そして、ブラームスのバイオリン協奏曲。この曲は、前曲と違って、クラシック音楽のあらゆる協奏曲の中で五本の指に入るほど好きな一曲だ。
この曲ではヴェンゲーロフのカリスマ性をまざまざと見せつけられた。特に第一楽章のカデンツァがすごかった、ホールにいる全員の視線、聴線(?)が、彼の奏でるバイオリン1点に集中。よい演奏会にしか現れない、緊密な磁場のような空間を満喫できた。
ただ、ソロとしてのヴィルトゥオーゾぶりは驚嘆したが、協奏曲、アンサンブルとしての曲の出来は今一つだった。全曲を通じて感じたが、特に第3楽章、ヴェンゲーロフの疾走感と、オケのテンポが若干マッチしていない箇所が見受けられた。たぶん、指揮者の広上淳一氏のある種“まっとうなテンポ”の感覚と、ヴェンゲーロフのダイナミズムの差異があるように思えた。
マキシム・ヴェンゲーロフのヴァイオリンは確かにすごい。聴衆をグイグイと引っ張っていく魔力がある。ただ、前週にムターとランバート・オルキスの室内楽的、ジャズでいう「インタープレイな」デュオを聴いただけに、この差異は気になった。
ま、これは好みの問題だ。明らかに聴衆(=客層)も違っていた。この日のヴェンゲーロフのリサイタルでは、バイオリンケースをリュックのように抱えた音大生っぽい男子女子がちらほら見られたが、ムターのリサイタルは熟年層男性が中心だった。
50代が見えてきた私には、カリスマ性あふれるヴェンゲーロフの演奏よりも、ムターの室内楽的な演奏の方が合うような気がした。
ヴェンゲーロフの奇跡 百年にひとりのヴァイオリニスト
著者/伊熊よし子
発行/共同通信社
イスラエルの若き天才ヴァイオリニスト、マキシム・ヴェンゲーロフ。幼いころからの練習につぐ練習の日々、コンクールでの優勝、海外での演奏活動など、生い立ちから音楽に対する思いまで、その半生を綴る。(Amazonより)